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last updated 1997/07/28

第74話(全130話)

嵐のあと(1/4)




2 嵐のあと

 いったいどのようにして嵐をやり過ごしたのか、ピートにはわからない。暴風雨は夜明け前
まで猛威を振るい続け、筏を翻弄した。大きく東へ流されたかと思うと、こんどは北へ数キロ
引き戻され、その間、筏はわずか一秒たりとも水平を保つことはなかった。真夜中には体温が
激しい風にすべて吹き飛ばされてしまい、マリカの唇は紫と化し、肌は蝋よりも白くなってい
た。間断なく打ち付けてくる雨と波に皮膚がふやけ、体温を奪われ続けることで、筋肉も強ば
り、弾力性を失っていた。暗視スコープでピートがみつめるマリカは、ただもう筏に全身でし
がみついているだけだ。最後まで彼女は筏を安定させようと、嵐に向かって勝ち目のない戦い
を続けていたが、真後ろから波がワッと驚かそうとでもするかのように襲いかかってきた時に
、危うく筏から弾き飛ばされそうになり、その時に櫂を手放してしまった。そこから後は、彼
女がどんなに不屈の闘志で嵐に挑もうとしても、無意味だった。体力を無駄にしないで! ピ
ートはマリカへと叫び、マリカはそれに従って、筏の上に横たわった。マスターの指示に従っ
たのではなく、単にもう起き上がる力を失っていただけなのかも知れない。時おりワーターが
ヴァオオオオッと嵐に向かっていなないた。その声は瞬間、風の轟きを引き裂いた。風の金切
り声を引き裂くほどの雄叫びを上げるワーターに、ピートは何だか魔術的な奇蹟を見るような
気がした。モーゼが大海を裂いた時も、やはり見守っていた群衆は、そこに神がかった魔法を
感じたことだろう。しかしワーターはモーゼではない。モーゼは海を割ることで群衆を救った
と伝えられているが、ワーターの叫びはほんの瞬間だけ、風を数メートル向こうに押しやった
だけにすぎない。ワーターとの力比べを楽しむかのように、すぐに何倍もの轟きで風が筏にの
しかかってくる。吹き荒ぶ風は、さらに体温と体力と気力を筏からどこか遠くの空へと持ち去
って行った。風や雨や波にとって、こんなちいさな筏の中にまだ気力や体力が残っているほう
が不思議だったのだろう。それは何だか自分たちの顔に泥を塗るような、小癪なことだったの
かもしれない。暴風雨はわが力に屈服せよと筏に引導を渡そうとし、波は筏ごとき粉々にして
くれるわ、とさらに激しくマリカたちを空へと放り投げては渦巻く波の底へと突き落とし続け
た。しかし、マリカもワーターも、そして思い出したようにピクッと体を震わせるフィンフィ
ンも、最も大事な積み荷だけは嵐に引き飛ばさせはしなかった。マリカたちは屈服することを
拒み続けたし、筏も海が仕掛けてくる文字通りの波状攻撃に耐え続けた。
 そして朝が訪れた。
 猛り狂う暴風雨を思う存分に暴れさせていた厚く黒い雲は、自らのエネルギーを制御出来ず
に自滅した。稲妻が雲に亀裂を走らせ、亀裂の向こうに明け行く空が覗きはじめる。波は羽目
を外し過ぎたことを恥じるように、徐々に波頭の高さを下げて行き、雨は小降りになり、そし
て海面に漂うだけの霧となって、騒乱の舞台から退場して行った。
 ワーターが突然、ヴァオオオオッと雄叫びを上げた。命の灯し火だけはお前らに渡しはしな
かったぞ、というそれはひとつの勝利宣言だったのだろう。
 だが、ワーターはもちろん、マリカもピートも知らなかった。
 暴風雨の退場は、それに続く戦いの幕開けにすぎなかったことを。そしてその戦いこそが、
メイン・イヴェントであり、暴風雨は単なる場つなぎの前座でしかなかったことを。
 だから、マリカたちが、奇跡的に筏の上に全員で顔を揃えていることを、笑みを交わして確
認したのだが、その瞬間だけで笑みは消え去ることとなった。
 嵐はすべてを奪い去っていた。フィンフィンが集めてきていてくれた、貝や小魚といったマ
リカとワーター用の食料はもちろん、飲料用の水も樽ごとどこか水平線の彼方に消えていた。
アーバムから貰ったテイゼルの実とローガン・ベリーのお茶を入れた麻袋はマリカの腰のベル
トにしっかりと結び付けられていたけれど、袋の中身はほとんど全部、海が御相伴に預かった
ようだった。袋の中に残っていたのは、塩水にどっぷりと漬かってグニャグニャにふやけてし
まったティゼルの実がひとつきりだった。ほかに何もなかった。葉を編んだ帆は引き千切られ
て跡形もなかったし、帆がもし残っていたとしても、肝心のマストが折れてしまっている以上
、毛布か日除けにしか使い道がなかったろう。しかし、帆はない。だからこの筏には日除けも
毛布もないのだ。もしそういったものがあれば、たとえ食料と水がなかったとしても、マリカ
たちが戦おうとしているメイン・イヴェントをほんの少しだけ有利に戦うことが出来たかもし
れない。しかし手元にないものをどんなに望んだところで、それが空から降ってくることはな
い。奇蹟は使い果たされていた。あの嵐の中、無事に筏を浮かばせておいてくれただけでも、
奇蹟の大盤振る舞いだったのだ。これ以上を期待するのは虫が良すぎる。
 マリカは披露困憊していた。あまりの寒さに自分の体を抱き締め続けていて、体中の筋肉が
その恰好のまま固まってしまっていた。マリカは手を動かし、肩を回し、足を揉んで筋肉をほ
ぐすべきだったかもしれない。しかし嵐の後に再び訪れた、静かな朝の凪状態に気持ちが緩ん
でいた。緊張と恐怖にきつく絞め上げられていた精神が、やわらかくほぐされて行くように感
じていた。穏やかな暖かい陽射しと、揺りかごのようにやさしく揺れる波が、疲れ切ったマリ
カを深い眠りに誘い込むのに、さしたる時間は必要ではなかった。
 ワーターもまたぐったりと横たわって腹を規則正しく上下させている。眠っているのだろう
、空に向かって雄叫びをあげることもいまはない。
 フィンフィンは体の下半分を海に落とすようにして、筏の揺れにあわせて体を揺すっている
。あの嵐の直後だから、獰猛なスワングが血の匂いを嗅ぎ付けて近づいてくる心配はなかった
。スワングたちは嵐にかき回された海、というのが大嫌いなのだ。さまざまな浮遊物が海水の
中に舞い踊っていて、それがスワングの視覚と聴覚を麻痺させる。だからスワングたちは嵐の
最中と嵐のあとだけは、どんな獲物が目の前を横切ろうと、ジッと動かない。フィンフィンは
それを知っていた。だから傷口を海水で消毒する機会が、海がまたもと通りの透明度を回復す
るまでの、わずかな間しかないことも知っていた。その機会を疲れているからと言ってフィン
フィンは無駄にするつもりはなかった。

(つづく)




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